社会人の教養として「一生に一度は見たい美術品」をご紹介。今回はアメリカを代表する画家となった日本人画家、国吉康雄の《仔牛は行きたくない》を取り上げます。
国吉康雄《仔牛は行きたくない》1922年 51.8×41.8センチ宇都宮美術館蔵美術評論家・ノンフィクション作家の野地秩嘉が、社会人の教養として「一生に一度は見たい美術品」をご紹介。今回は宇都宮美術館が所蔵する国吉康雄の《仔牛は行きたくない》を取り上げます。
太平洋戦争中もアメリカで生きた画家《仔牛は行きたくない》は戦前、日本からアメリカに渡り、画家となった国吉康雄(1889-1953年)の作品だ。生年と没年を見ればわかるように彼がアメリカにいた時代は太平洋戦争を挟んでいる。アメリカで画家として生きることが最も難しい時代に同国で評価されたのである。
彼の絵を理解しようとするならばアメリカにおける彼の足跡を見つめなければならない。福武教育文化振興財団がまとめた「国吉康雄の来歴」などから簡単に紹介する。
国吉康雄は1889年、岡山市内に人力車夫の一人息子として生まれた。彼が生まれた明治時代はタクシーが一般的だったわけではない。人力車夫は時代遅れの仕事ではなく、同業の人間が多くいたと思われる。1904年、彼は岡山県立工業学校の染料科に入学した。しかし2年後に退学して16歳の時、労働移民としてひとりでアメリカに渡った。
北米のシアトルにあった日系人コミュニティを頼り、そこに暮らした。鉄道車庫の掃除、ホテルのボーイ、果樹園での労働で金を稼ぎ、シアトルからロサンゼルスに移った。ロサンゼルスでは公立学校の夜間部に通いはじめ、画家を目指すようになる。美術学校で学んだ後、今度はニューヨークへ移った。ニューヨークではナショナル・アカデミー・オブ・デザイン、インディペンデント・スクール・オブ・アーツに通った。その後、美術学校のアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで4年間、美術を学ぶ。足跡をたどると、彼は渡米して割とすぐに絵に出会い、それからずっと美術の勉強をしていることになる。
スポンサーとの出会い国吉は幸運だった。アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークに在学中、アメリカのフォークアートおよび現代アートのコレクター兼美術評論家のハミルトン・イースター・フィールド(1873-1922年)と出会う。イースター・フィールドはフォークアートに造詣が深かった。フォークアートとはその土地固有の文化や慣習を色濃く反映したアートで、キルトや木彫りなど主に実用的で装飾的な作品を指す。18世紀から19世紀にかけてアメリカで盛んに作られ、地域特有の様式を持ったものだ。専門的な技術を必要とせず、自由な想像力を駆使して作られることが多い。
イースター・フィールドにとって国吉はフォークアートのような作風が期待できる画家だったのだろう。そして、イースター・フィールドはニューヨークのアパートメントとメーン州にあるアトリエを提供する。国吉は創作活動に専念することができた。
1922年にはニューヨークのダニエル画廊で初の個展を開催し、新聞や雑誌に取り上げられた。同時期の作品は動物や家、人物が描かれた記憶や想像に頼った風景画が多い。そして、画面の下部には近景を描き、画面の上部には遠景を配するという表現方法を用いた。
作家の想像力に引き込まれるフォークアート
国吉康雄《仔牛は行きたくない》1922年 宇都宮美術館蔵《仔牛は行きたくない》は1922年の作品で、彼の拠点はニューヨークにあったが、これはメーン州のアトリエで描いたものだろう。
この絵では人物と家は画面の下にあり、真ん中に2頭の仔牛、画面の上には牛が飼育されている小屋が見える。首にひもをかけられ、連れ去られようとしている仔牛が飼い主の少年に「僕たちはここから離れたくない」と訴えているように見える。少年は仔牛に紐をかけて引っ張っている。仔牛は抵抗しているようだが、いずれは連れ去られてしまうだろう。絵にあるのは仔牛の抵抗を無表情に眺める少年だ。感情に訴えようとしない、作為のない描き方だ。アメリカ人はこの絵から日本という要素を感じたわけではない。よくできたフォークアートと思ったのではないか。
宇都宮美術館の学芸員、黒木彩香さんはこの絵について、次のように言っている。
太平洋戦争を越えて、アメリカを代表する画家へ「国吉康雄は自身が丑年生まれであることに触れつつ、『自分には何か牛に近いものがあると感じて』牛を描いたと語っています。牛というモチーフを美しくもあり、醜いものでもあるという二面性を持ったものと捉えていたようです。彼の画業の初期には牛や少女など、気に入ったモチーフをずっと描き続けていました」
国吉の足跡に戻る。
1933年、国吉はかつて学んだアート・スチューデント・リーグ・オブ・ニューヨークの教授に就任した。太平洋戦争があった時代も教授として務め、1953年までの20年間、学生を指導した。彼にとって最大の事件は母国、日本とアメリカの戦争だった。
1941年、国吉が52歳の時、日本軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が始まる。国吉は外国人居住者から敵性外国人となった。ただ、ニューヨークにいたため、西海岸の日系人とは違い、捕虜収容所に入れられたわけではない。彼が教授をしていたアート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークの学生は国吉を支持する声明を発表した。学生に応えたのだろうか。国吉は在ニューヨーク市日本人美術家委員会を結成し、アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本の軍国主義に反対する声明文を発表した。
1945年、戦争が終わった。
1947年、国吉は戦後、結成されたアメリカ芸術家組合の初代会長に選ばれ、同組合を1800人の会員を擁するアメリカ最大の芸術団体に育てた。1948年、国吉はアメリカの総合雑誌で全盛期、290万部を売り上げたルック誌が選ぶ「現代アメリカの最も優れた画家の10人」に選出された。また、ニューヨークのホイットニー美術館では同館初の存命画家として国吉の回顧展が開かれた。1950年、メトロポリタン美術館の「今日のアメリカ絵画・1950年」で三等賞を受賞した。
その後、サーカス主題の絵画制作に熱中。1952年、国吉、63歳。第26回ヴェネチア・ビエンナーレに、4人のアメリカ代表作家のひとりとして参加する。1953年、胃がんにより死去。
こうして年譜を見ると、国吉はアメリカの画家だった。アメリカ人画家と言ってもいい。国吉自身も日本を愛していたとは思うが、それよりも、ホイットニー美術館での回顧展開催やアメリカ人画家の代表としてヴェネチア・ビエンナーレへ参加したことの方が彼にとっては自負するに足ることだったのではないか。
国吉の《仔牛は行きたくない》を見て、わたしはシャガールの絵に似ていると感じた。素朴さや夢に見たような情景、そして、物語を感じることがふたりに共通している。しかし決定的に違うことがある。
シャガールが描いたのはふるさとのロシアだった。ロシアの田舎からパリにやってきたシャガールは故郷を描いた。一方、国吉が描いたのはアメリカの農村風景だ。生まれ故郷の岡山県を描いたのではない。シャガールにとって夢に見る故郷はロシアだったけれど、国吉にしてみれば日本の風景は夢に見るものではなかったということだろうか。それを考えると、国吉康雄はあくまでアメリカの画家だったと私は思う。
館名:宇都宮美術館
所在地:栃木県宇都宮市長岡町1077
開館時間:9:30~17:00(入館は閉館の30分前まで)
休館日:月曜日(祝日の場合は翌平日休館)
サイトURL:https://u-moa.jp/index.html